「リベラリズム」が、各市民に対して「自らの属する政治的共同体の自由を守るために全力で闘うべきこと」を要請するものだとすれば、もともと政治や社会的正義に関心のある人は歓迎するだろうが、そうでない人は、そういう主張を押しつけてくる”リベラリズム“をうさんくさく思うだろう。「『自由』主義を名乗っているくせに、何でそんなにウザイことを言うんだ。政治や他人のことに関心を持たない『自由』を認めていないではないか?」、と。これは「自由」という(一つの)価値を他の価値より優先しようとする「リベラリズム」という「主義(~ism)」が常に抱えるジレンマでもある。
(仲正昌樹、『なぜ「自由」は不自由なのか』、朝日新聞出版、2009年8月30日発行、129頁)
自由というのが主義である限り、本当の自由にはなり得ない、ということでしょうか。
ヨハネの福音書8章32節に「真理はあなたがたを自由にします」と語られたイエスさまのことばが記されています。
この真理という言葉を抽象的な概念と理解すると上記のジレンマに陥ると思うのですが、ヨハネの福音書が語るように、真理をイエス・キリストご自身のこととして理解すると、抽象的な概念ではなく人格をお持ちの神と指定理解することになりますので、そこに真の自由があるような気がします。