われらはあなたが地上に照らしてくださるいいっさいの光を感謝します。その光はわれらの心をよろこばせ、われらはあなたの創造の中に生きることをまなび、明るいまなざし、開かれた心、幼子の感覚で、み手よりいっさいの善きものを受けるのです。
C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、211f頁
〔あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。/今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。〕(出エジプト19・4,5)
2018年9月19日(水)
神さまの創造の中に生きること。
創造論か進化論か、ということがクローズアップされて、創造論に立つことが聖書信仰に立つことである、と論じられることが多いように思います。
確かに創造論に立つことは大切なことですが、創造論を科学的に証明しようとすることに果たして信仰的な意味があるのでしょうか。科学的に証明できたからそこに信仰が生まれるのでしょうか。もし科学的に証明できたところに信仰が生まれるとすれば、その信仰は結局のところ科学が土台になっている、あるいは人間の知恵や知識が土台となっているということなのではないでしょうか。
創造論も大切ですが、それよりも日々神さまの創造の中に生きることが大切なのではないかと思います。信仰に生きるということは、つねに神さまがすべてをお造りになられたこと。今もその創造の中に、自らが生かされていることを学ぶこと。そうして明るいまなざし、開かれた心、幼子の感覚で、神さまの御手よりいっさいの善きものを受けること。そのような歩みの中に信仰に生きる道があるのだと思います。