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ついにわれらの心は自由となってあなたを認識します

主よ、われらの神よ、われらはあたなによってのぞみを抱きます。・・・みことばは確実に変わることなく、あなたのすべての行為は、大いなる、まことに大いなる時をめざしていそいでいるのです。その時あたなは栄光を受け、ついにわれらの心は自由となってあなたを認識します。いっさいの人間のわざから自由となり、いっさいのおそれやためらいから自由となり、いっさいの苦しみと艱難から自由となって、自由に認識するのです。

C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、207f頁

〔しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。〕(エレミヤ31・33,34)

2018年9月14日(金)

神さまに望みを置くということは、この世的な、人間的な望みがなくても、望みをもって生きることが出来るということです。この世的な、また人間的な望みの根拠がなくても、望みに生きることが出来るということです。

それは一切のことから自由にされるということでもあります。

それは神さまを認識するということにおいて、いっさいの自由を持っているということです。神さまを認識するのに、人間的な何かに頼らなくてもよいということです。


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