, ,

われらの罪がみまえに出ることをゆるしてくださいます

あなたはわれらの過失、われらの罪がみまえに出ることをゆるしてくださいます。そのことにより、われらは善においても悪においてもわれら自身の代表を持つことを得、われらの全時代は、すべてがすでに聖なるみ顔のまえに出たのだという慰めを得ることをゆるされているのです。こうしてわれらの日々のおそるべきことも善へと整えられ、禍から救いが生じ、死から生命が生じるようにしてくださるのです。・・・あなたの僕(しもべ)に対する信仰によってわれらをお守りください。

C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、205頁

〔彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。〕(イザヤ53・11)

2018年9月11日(火)

私の罪は、すでに神さまの御前に明らかになっています。聖であり義である神さまの御前にすでに明らかになっているにもかかわらず、どうして私たちは今この時、滅ぼされることがないのでしょう。

罪は、すでに神さまに御前に出た、ということ自体が私にとっての慰めである、ということです。それはイエスさまの十字架において、すでに明らかになったということであり、それが私の慰めである、ということです。

「あなたの僕に対する信仰」。この「僕」は、聖書のことばから、イエスさまご自身のことである、と理解できます。イエスさまに対する私たちの信仰、という意味です。

イエスさまに対する私たちの信仰とは、このお方において私たちの罪が、神さまの御前に明らかになったという慰めをいただく信仰である、ということです。


投稿者:

タグ: