主なる神よ、在天のわれらの父よ、どんなに多くの圧迫が加えられ、試練が来ようとするこの時代にあってもわれらは身をあなたに向けます。
C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、203頁
〔神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」〔セラ/わたしは言います。「いと高き神の右の御手は変わり/わたしは弱くされてしまった。」〕(詩編77・10,11)
2018年9月8日(土)
このデボーションテキストには、日々ブルームハルトの祈りと共に聖書箇所が記されているのですが、今日の聖書箇所が少し不思議な気がします。
ただこれに続いて「わたしは主の御業を思い続け/いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続けあなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら/あなたの御業を思いめぐらします。」(12,13)とありますので、新共同訳の節の数え方ではなく、口語訳や新改訳の節の数え方での標記なのかもしれません。
圧迫や試練があると信仰者は神さまに身を避けるのだと思います。圧迫や試練は、神さまに心を向ける道を開きます。
しかしこの祈りの言葉は、圧迫や試練の中にあっても、神さまに身を避けるといいます。つまり圧迫や試練は必ずしも神さまに心を向ける道を開くのではない、むしろ神さまから心が離れてしまうきっかけになるのだ、ということが前提とされています。圧迫や試練によって心が神さまから離れてしまいそうになるとしても、むしろ神さまに身を避けるという信仰的な選択をするのだ、というのです。