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受けることと求めること ヨハネの福音書5章44節 考

ヨハネの福音書5章44節の中に「互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがた」という言葉が出てきます。栄誉という言葉は同じなのですが、互いの間の栄誉については「受ける」という言葉が使われていて、神からの栄誉については「求める」という言葉が使われています。両方とも同じに統一してもよいようなところですが、やはり使い分けているからには何らかの意味があるにちがいありません。

「受ける」ということは、完全に理解し解明するという雰囲気を感じますが、「求める」ということからは、完全に理解し解明することを限りなく求めつつも、それをどこまでも求め続けることであって、この地上にあっては完全には自分の手に入れることはできないのだ、という雰囲気を感じます。

求めるという言葉は、英語では「seek」で、教会において求道者のことを「seeker」といいます。求道者であった時代は、洗礼を受けて信者となることによって、終わります。

しかし、神さまからの栄誉を求め続けるというキリスト教信仰のありかたを考えると、キリスト教信仰者は、どこまでも求道者であり続けるのだとも思います。

キリストにお出会いし救いの確信をいただいたということは、もう他に何かを求める必要はないということでもありますが、しかしそれがキリスト教の独善と他者への優越をもたらし、神さまからの栄誉を求めるという真摯で誠実な生き方を希薄にさせるとすれば、ちょっとキリスト教信仰に生きるとは言えないのかもしれません。

どこまでも求道者であり続けるのが、キリスト教信仰、教会的信仰に生きる者の在り方ではないかと思います。

ちなみに、求道者(きゅうどうしゃ)という言葉は、仏教では求道者(ぐどうしゃ)というそうです。仏道、あるいや真理を求める人のことです。日本人は大切にしてきた言葉なのだと思います。


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