神のよわい
2017年12月31日(日)あなたは常に現在である永遠性の高所に立って、すべての過去に先立ち、すべての未来を越えていたもう。
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あなたのよわいは決して過ぎ去ることもなく来ることもない。しかしわれわれのよわいはすべてのよわいが来るようになるために過ぎ去りそして来る。あなたは常に存在したもうがゆえにあなたのよわいは常に同一である。あなたのよわいは移り行かないのであるから来るものによって押しのけられて去るようなことはない。
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あなたの日は毎日ではなく、ただ今日である。あなたの今日は明日にゆずらず、また昨日に続くこともないからである。あなたの今日という日は永遠である。〔アウグスティヌス〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
397頁
「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(第2ペテロ3・8)
このアウグスティヌスの言葉は私にはなかなか難解です。だれか優しく教えてくださる方はおられないだろうかと思います。
神さまは永遠のお方です。ですから初めであり終りであるお方です。
初めといったとたんに私たちはその初めのさらに前の時を想像してしまいます。しかしその初めよりも前の時があるとすれば、その初めはすでに初めではありません。
未来を想像した場合、終わりの時を思いますが、その終り時の更に終わりの時があるとすればその終わりはもう終わりの時ではありません。
ですから、神さまが永遠のお方であるということは、神さまは「すべての過去に先立ち、すべての未来を越えて」存在しておられるお方なのです。ですから神さまは「永遠性の高所」つまりいつまでも変ることのない高いところに立っておられ、その神さまののお立ちになっておられる「時」は、常に「現在」なのだというのでしょう。
私たちは一つの時にしか立つことが出来ません。過去や未来は想像するだけです。しかし神さまはそれぞれの時に「現在」として存在しておられるのです。私たちは明日というのは今日という日の次の日として想像するだけですが、神さまは今日という日も「現在」として存在しておられる、明日という日にも「現在」として存在しておられるのです。
こんな感じでしょうか。間違っていればぜひ教えていただきたいと思います。
このような解釈であるとすれば、本当に明日のことを思い煩わなくてもよいですね。