, ,

大いなるキリストの「わたし」

大いなるキリストの「わたし」
2017年12月28日(木)

その時、君はもはや自分の魂、生活、永遠のことについて心をわずらわさなくてもよくなるのである。君の戦いはいつの日も勝利するのである。
・・・
イエス・キリストが、「わたしはこの世界のためにいのちを捨てる」と言ってくださる時、この方が誰であるかを知っているのである。

〔クリストフ・ブルームハルト〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
394頁

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16・33)

昨夜の祈祷会では「ゆるす」ということについていろいろと分かち合うこととなりました。ゆるすことはむずかしいということでした。

「ゆるす」には二種類あります。ひとつは「許す」です。これは許可をするということで、不正があっても見逃す、見過ごしにするというようなことも含んでいます。不正を含んでいるので、聖さに陰りがあります。不義が土台にあります。
これにたいして「赦す」には、自己犠牲があります。義が成り立つために、いのちが注がれます。十字架にかかってくださったイエスさまにしかできないことです。
おなじ「ゆるす」という言葉なので混同します。もちろん重なるところもあるでしょう。しかし混同してしまっては、主がなして下さったほんとうの「赦し」がわからなくなります。
この「赦し」をいただいた者は、赦しを与えてくださった神さまのお力によって赦す者へと造り変えられます。決して自分の力で赦しに生きるのではありません。ご聖霊さまのお力によってそれをなすのです。
ですから、自分自身は赦すことの出来ないものであるということをわきまえ知りつつ、それに開き直るのではなく、神さまに祈ることが必要です。神さまを礼拝することが、神さまを愛することが必要です。
そうして私たちはどのような中にあっても完全な勝利者となるのです。


投稿者:

タグ: