まことの謙遜
2017年12月24日(日)

「卑しさ」でなく、「神が心にかけて下さった」というところが強調されねばならないのです。ほめたたえられるべきものはかの女の「卑しさ」ではなく、神の顧みだったのです。
・・・
真に謙遜な人は、結果には目もくれません。神の謙遜はそれみずからを知らないのです。

〔ルター〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
390頁

「マリヤは言った。『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」(ルカ1・46~48)

自分がどんなに卑しくても、あるいはどんなに高貴でも、神さまは顧みてくださいます。私たちの「自分自身の何か」に全く関わりなく神さまは私たちを顧みてくださいます。このような神さまなので私たちもマリヤと共に神さまをほめたたえます。ほめたたえずにはいられないのです。


投稿日

カテゴリー:

, ,

投稿者:

タグ: