自発的な信頼
2017年12月14日(木)

どのようにして、信仰は私たちを自由にするのでしょうか。信仰は実に、私たちに語りかけ、私たちの間で行為されるお方を、信頼させることによって、私たちを自由にします。ところで、信頼というものは、決して強制されるべきものではなく、自発的に生まれるものです。信頼は、愛とまったく同様に、命令されるものではありません。人間は、信頼と愛に向かって暖かく目ざましめられ、相手を信頼し愛せざるをえないようになるのです。
・・・
強制力によって人を徹底的に服従せしめねばならぬと考える所には、何ら信頼はなく、ただ抑圧された不信頼があるだけなのです。

〔ヘルムート・ティーリケ〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
380頁

「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌8・4)
「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8・32)

信頼は命令によって生まれるものではありません。ですから信じなさいという命令が成り立つのは、それが神さまからの命令であるときではないでしょうか。神さまが信頼しなさいと命じられるということは、その全能の御手を動かして信頼する者にする神さまご自身の決意といますが、約束が裏打ちされているということでしょう。

私たち人間ができることは、ただ祈ることだということです。しかしこの祈りというのはただの気休めではありません。ただの気休めと受け取ってしまうのは、祈りの力を知らないということ、全能の神さまのお力を知らないということなのでしょう。

今日も祈りつつ一日を歩みましょう。東近江ではこの冬初めての積雪となり、教会も雪化粧をしました。

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