神との抗争
2017年12月7日(木)服従は信仰の重要な目標である。しかし、服従は単なる屈服や諦めではないし、祈りにおいてさえも、常に黙従の形をとるとは限らない。自分の要求を強く力説し、それをもって真の嘆願とするとき、神の決定に従うと同じ程度の神への従順となっていることがある。
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祈りによって神を説き伏せて幸福をひき出せというのが神の恩寵の意志である。かくまでしてわれわれに幸福を与えようとなさる神の恩寵をどうして愛さずにおれようか! 祈りに対する回答は、軽薄な利己主義に対しても、かわいさゆえに心やすく与えるという親切なものとは異なる。「われわれの抵抗者こそ、われわれの救済者である」。神と抗争することは神の意志を行う一つの方法であり、反抗は「み心をなさせたまえ」という祈りの一方法なのである。〔P・T・フォーサイス〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
373頁
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7・7)
人格をお持ちの神さまは、私たちをご自身との人格的な交わりに招いておられます。人間が健やかな人間としてこの地上を歩むために、神さまとの人格的な交わりが必要であり大切なのです。神さまとの人格的な交わりが見失われてしまうと、人間は愛の中に生きることが出来なくなり、人間同士の間の愛も冷え、あるいは混乱します。
神さまとの人格的な交わりの要素には、人間が神さまに対して激しく求めるという祈りが含まれています。神さまは人間が激しく求めることができるために、容易には与えない、という一見不思議なお姿をお見せになります。人間が神さまと抗争することによって、神さまご自身がその意志を行なおうとされることを、神さまはお望みになっておられるのです。
それゆえ神さまへの反抗が、「み心をなさせ給え」という祈りのひとつの方法である、とフォーサイスは語ります。