「有難う」
2017年11月23日(木)

もしあのとき京都で解りもせぬ哲学などをかじっていたら、今日のように伝道者として晩年を過ごしていたかどうか。

〔浅野順一〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
357頁

「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2・8,9)

森明先生に京都大学への入学を反対された浅野順一先生。思い悩んで京都大学行きを延期することを病床の森明先生を訪ね報告されます。それに床から起き上がって両手をついて涙するばかりに「有難う、良く思いとどまってくれた」と森先生は答えられたといいます。浅野先生はそのときことを「見方によれば芝居じみている」とも振り返っておられますが、しかし結果的に伝道者として過ごせたのは、この時の森先生の言葉があったからではないかと語っておられました。

哲学はそれはそれで大切なものです。聖書を学ぶのに哲学を「道具」として学ぶことは大変有益なことだと思います。しかし人間は弱くその道具の「とりこ」にされてしまうことも事実です。どこまでも「キリストのうちに」ある「神の満ち満ちたご性質」を学びつづける喜びを確かにしたいと思います。


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