信仰の決断
2017年11月17日(金)

信じるということは、自分が信じる対象と同時に、その対象を信じるすべての人々とも結びつけられることであるからである。
・・・
これらの決断は相対的(relative)な洞察および信仰の基盤の上になされると思われるが、しかし相対主義的(relativistic)ではない。それは個人的(individual)決断ではあるが、しかし個人主義的(individualistic)ではない。それは自由(freedom)においてなされるのであるが、しかし独立(independence)においてなされるのではない。そしてそれは瞬間(moment)においてなされるのであるが、しかし無歴史的(nonhistorical)なものではないのである。

〔リチャード・二ーバー〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
351頁

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18・20)

 キリスト教信仰は「教会」を抜きにしては成り立ちません。おおよそ愛を学び愛に生きることをテーマにしているかぎり共同体の中に一人として、神さまを信じるということがなければ成り立たないのです。無教会というグループがありますが、「無」といいつつそこにも共同体が存在します。
 キリスト教信仰は個人的ではあるけれども、個人主義的ではないのです。

 共同体の中で生きるということによって、あらためて個人として生きるという道が開かれます。共同体の中で生きることが、依存的であったり、たがいの境界線をなくすようなことであるならば、その共同体は個人の自律的な生き方を阻んでいるのですから、真に個人として生きることができず、信仰者として生きることができなくなるでしょう。


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