生命がけの愛
2017年11月10日(金)子を持って知る親の恩ということがあるが子を失って見ると神の愛が解るものである。
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神がその独子を此の世に送り給うたとはどんなに大きな犠牲であったのであろうか。かかる犠牲なしに神にそむくこの世は救われないのである。キリストの十字架はカルバリーの丘の上にばかりあったのではない、すでにベツレヘムの馬槽(まぶね)の中にあったのである。〔浅野順一〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
344頁
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3・16)
お子さんをなくされた浅野順一牧師は、神さまがその独り子のイエスさまをこの地に遣わされたこと、十字架にかかられたことの痛みと苦しみ、そして愛がより深く分かったといわれます。十字架はゴルゴタ(カルバリー)の丘にあるばかりではなく、すでにベツレヘムの馬槽の中にあったと。
私は自分の子を失ったことはありませんが、この夏に長女が嫁いでいきました。そしておそらく来年の春には次女を嫁がせることになります。昨日教会の事務的な用事をしているときにラジオから山口百恵のコスモスが流れてきました。口ずさみながら不覚にも涙してしまいました。