喜びの奉仕
2017年11月8日(水)イエスは私たちを神の喜びへとまねきたもう。神のみ旨をなそうとする私たちの願いは、私たちを戦いへとかりたてる。それは、傷を負い、たおれつつも、なお新たにされて「にもかかわらず」を叫ぶ戦いである。この戦いは、私たちが自己から解放された新しい「私(イッヒ)」をえるたたかいである。
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自分自身にたいして厳格であり冷淡であるとともに、他人にたいして厳格である人びとがいる。こういう人びとは、他人をさばいたり、排斥したり、つらさをおしつけたりするのである。私たちはむしろ失われた者や神からはなれたものに、神の憐みと喜びとをもたらす奉仕がゆだねられているのではないか!
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待望している助けとは、どこにあるのか。彼は、自分自身から解放されることを、そして、神の喜びと憐れみのなかにおかれることを待ち望んでいる。ほかのすべての苦悩は、それからみるならば、小さな、とるにたらぬものとなるであろう。否、まったく消えさってしまうであろう。〔ユリウス・シュニーヴィント〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
342頁
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2・10)
私が私を創るのではなく、神さま私を創ってくださいました。その目的は「良い行いに歩む」ことですが、その良い行いをもあらかじめ神さまは備えてくださいました。ここには、自らの功績によるものは何もありません。
自らの功績によるものは何もない、ということは、謙遜を語っているようでもありますが、それだけではなく、自分の力によって自分があるのでも、人生があるのでもないということを語っているのではないかと思います。
もし自分の力によって自分や自分の人生が存在しているならば、良い場面では高慢になり悪い場面では自己嫌悪に陥るということになるでしょう。すべては神さまによるということであるならば、どのような場面であっても、喜びに生きることが出来るでしょう。
信仰生活とは、このような変わることのない喜びに生きることです。