キリスト者の成長
2017年11月4日(土)キリスト教生活を歩みつづける、聖化の中に成長する、ということは、まさにわれわれが、より深く、より現実的に、自己の罪人であることの認識をふかめ、また、恵みの力を認識するに至るようにと、正しく成長していくことにあるのである。
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わたくしが、そのためにイエス・キリストが死んで下さった罪人なるがゆえに、わたくしは恵みに生き、ただ恵みによって生きるだけであることを、知り、経験すべきであり、そうすることをゆるされているのである。
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これはもちろん、人間が自己自身において、自分の罪に対してなされなければならないあの戦いを、そのうちに含み、また伴うものである。しかし、この戦いは赦罪に従属し、しかもこれを補う二次的なものではない。むしろ、いわば赦罪がおのれの身をつつむ形なのであり、赦罪がわたくしにわけ与えられたということのしるしなのである。わたくしがこの戦いを受けいれるということが、恵みによってひきおこされた従順ということなのである。恵みは、わたくしを、神の戒めのもとにおくという形でしか、わたくしに与えられないからである。この戒め、したがって恵みのもとに立つことによって、わたくしは、自分が赦しを与えられ、しかも、そのゆえに、その赦罪の力によって、罪を憎み、これを逃れなければならない罪人であることを認識するのである。〔E・トゥルナイゼン〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
338頁
「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ11・6)
自分が罪びとであるということがわからないと恵みがわからないと言われることがありますが、聖書はその逆を語っています。恵みがわからないと自分が罪びとであることがわからない、と。
また聖化、すなわち聖くされるということは、罪とは全く無縁の状態になるというのではなく、むしろより深く自分が罪びとであることを覚えることであると聖書は語ります。自分が罪びとであることをより深く知るということは、自分に注がれた神さまの恵みがどんなに深く大きいことであるかを知ることです。
恵みを知ること、それが自分の罪を知ることを生みだし、それがまた聖く生きる道へと私たちを招きます。
罪の赦しは行いによって成し遂げられるのではありません。あるいは行いが罪の赦しの欠けた所を埋め合わせるのでもありません。新しい戒めである福音のもとに自らを置くことによってのみ、罪の赦しが与えられ、その罪の赦しの力によって、私たちは聖化への道を歩みます。また歩まなければならない罪人であることを認識します。