神の言葉の鏡
2017年11月2日(木)われわれキリスト者は秘密を持っている。それは、神がわれわれの顔に、ご自身が喜ばれたあのみ子の容貌を見てとられるということである。それ故に、浴室の鏡に見る自分の姿は、もはや自分の本当の姿ではない。
・・・神の言葉の鏡がわれわれに告げるのは、自分を孤立させて眺めることはゆるされず、キリスト・イエスにある者として自分を見ることがゆるされているのだということである。そのしるしとしてわれわれは洗礼を受けているのである。
・・・
あそこの十字架においてイエスはあなたのために死なれた。そしてあなたの罪の生活は、今や十字架につけられたイエスと共に死んでしまっているのだ。それ故にわれわれは今や古き人を洗礼の水の中に沈めてしまう。あなたはもはやあなたのものではない。あなたのために生きておられるイエス・キリストのものである。今や自分勝手な生活はもうない。今は、新しい生活を、キリストの生活を生きるのである!〔ルードルフ・ボーレン〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
336頁
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2・20)
新しいいのちに生きる。そのいのちは神さまのいのちです。神さまは永遠のお方です。ですからキリストにある者のいのちは永遠のいのちです。
そのしるしは洗礼です。洗礼は単なる儀式ではありません。神さまの出来事です。何よりも現実のものです。たとえ私の感情が揺らぐことがあっても、この現実は変化しません。今日も新しい生活を、永遠のいのちを私たちは生きます。