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「ただ信仰のみ」

「ただ信仰のみ」
2017年10月29日(日)

・・・「ただ信仰」という標幟(ひょうし)は「唯一の神の栄光のために」(soli Deo gloria)という有名なカルヴァンの言葉と根柢的には何んらの区別をも見出し得ぬものである。ルターの宗教(信仰)を近代的な経験偏重の主観的敬虔と混同することは許されない。
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ルターは宗教を人間の手によって改造し修築しふたたび偶像を構想するかわりに、神にかえした。神を神とし、人間を人間として自覚することによって、彼はただに宗教(信仰)の醇化(じゅんか)だけではなく、政治と文化に対して自由の路を打ち開くことができた。神を獲るための戦いは、かえって神々からの解放を成就する。無神論者が偶像を刻むという、世のつねの慣わしに逆らって、ルターは神のために神の名を藉(か)るあらゆる束縛から人間を断絶させたのである。

〔熊野義孝〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
329頁

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5・1)

 この聖句は「義と認められた私たち」は「神との平和を持っている」という読み方ができると思いますが、今一つ「信仰によって義と認められた私たち」は「神との平和と持っている」とも読めるのではないかと思いました。すなわち信仰によらないで義と認められた私たちであれば、神との平和を持たない、とも読めるのではないかということです。もちろん信仰によらないでは義と認められるということもないわけですが、しかし人間は信仰によらないで、つまり行いによって義と認められようと努力を積み重ね、偶像をつくり、飽くなき追及をしてきたのではないかということです。そういうことでは神さまと平和を持つことはできないのです。案外キリスト者の中には、信仰によるのではなく行いによって義と認められようとする傾向があるのではないかと思います。あるいは信仰といいつつ「信仰という名の行ない」によって義と認められようとしているのではないかと・・・。そうであれば、それは神さまに栄光を帰しているのではなく自分に栄光を帰しているのであり、神さまの栄光のために生きているのではなく、自分の栄光のために生きているだけです。そのような人生はこの世的には立派に見えるのかもしれませんが、神さまの前には空っぽの人生です。
 人間は神さまの栄光のために生きることによって「神の名を藉るあらゆる束縛」すなわち偶像の束縛から断絶、解放されるのです。


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