告白を呼びさます愛
2017年10月25日(水)したがって、息子がまだ一言も語らぬ前に、父の愛が息子に先んじているのである。しかも、それだからといって異教の悲惨のなかで目覚めた罪の告白は沈黙していたわけではない。逆に、父の愛が告白をうながしたのである。ルターがくりかえしていっているように、神の愛が私たちを悔改めへとかりたてるということは真実である。私たちは悔改めが喜びであることをきいた。イエスのみ業やみことばにおいて、神の憐みが私たちのもとにくるからである。
〔ユリウス・シュニーヴィント〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
325頁
「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2・4)
神さまの愛が先んじて、人を悔い改めに導きます。そうであれば宣教とは神さまの愛をひたすら宣べ伝えることとです。もし悔い改めが起こらないというならば、それは罪の指摘が弱いのではなく、神さまの愛を宣べ伝えることが弱いのです。アイルは神さまの愛の宣べ伝え方が間違っているのでしょう。
まずキリスト者は神さまの愛とはいかなるものであるのかを学ばなければなりません。