主の沈黙の破れる時
2017年10月24日(火)ご受難の時には沈黙しておられたが、後の審判の日には黙ってはおられないだろう。これこそわれわれの神、すなわち、すべての人の神ではなく、キリスト教徒なる信者の神であって、この神は、明らかに再臨される時、沈黙されはしないだろう。
〔キプリアヌス〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
324頁
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53・7)
「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」(黙示録1・1)
最後の審判の時は、神さまによる帳尻合わせの時です。神さまのお言葉そのものであるイエスさまは、沈黙をもって自らを審きのいけにえとしてお捧げなさいました。このお方が最後の時には語られるのです。