生の勝利
2017年10月18日(水)

ドストエフスキーの深みに通ずる道はなんと暗く、彼の内面風景はなんと陰惨で、彼のもつ果てしなさはなんと重苦しい感じをあたえることであろう。
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ドストエフスキーの作品においては、人生はほんとうに永遠の夜にほかならないではないか。
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ところがそこへ一つの言葉が奈落の奥から浮かびあがって。喧噪のなかにありながらも穏やかに、さながら一羽の鳩が荒海の上にただようように、奈落の上をはるか高くただよう。その言葉は静かに発せられるが、その意味するところは偉大である、至福にみちたものである。いわく、「友よ、生を怖れるな。」 この言葉は沈黙をもたらす。

〔シュテファン・ツヴァイク〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
318頁

「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」(第1ヨハネ5・1)

 「その方によって生まれた者」とは文脈から「兄弟」(4・21)のことです。信仰者は兄弟を、つまり隣人を愛します。大切にします。
 4章21節で「愛すべきです」とありますので、その流れからこの5章1節を考えると、ここでも「愛さなければなりません」とする方が自然な感じがしますが、聖書は「愛します」と記しています。つまり自然の法則を押し曲げて、無理をして、愛さなければならないといっているのではなく、信仰者においては愛するということが自然なことであると語っているのでしょう。
 信仰者とは「イエスがキリストであると信じる者」のことです。そしてイエスがキリストであると信じる者は「神によって生まれた」者であるといいます。
 信仰者は神の子なのですが、ここでは神によって生まれた者といいます。人間の力によって生まれたのでもなく、運命のいたずらで、成り行きで生まれたのでもない、神さまによって生み出された者である、神さまご自身がその主権において生み出された者、それが信仰者であるということです。
 私が信仰をもっているということ、それ自体が神さまによってなされた奇跡のわざであるということ。その真実に生きる時、私たちは隣人への愛に生きることが自然となるような人生に生かしていただくのです。

 隣人とは誰か。もっとも身近な隣人は、私自身である、ということです。神さまによって生み出されたという真実に生きる者は、自分自身を大切にすることが自然なこととして生きる者となります。


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