ホントウの愛
2017年10月17日(火)

愛がホントウの愛として表現されようとするとき、すくうことのできない虚無や死のかげがさしはじめるということは、人間の避けることのできない不幸であるようである。だが、私はこのような不幸に抵抗を感じる。愛は愛であって、死や虚無のかげをおとさせたくないからだ。そこで、人間はだれかをホントウに愛することができるか、という問題にほこ先を向けずにはおられないのである。

〔椎名麟三〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
317頁

「(愛は)すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(第1コリント13・7)

 愛には信頼と希望をもって忍耐することが含まれています。そこには痛みがあるということもできるでしょうか。しかし自分自身を破壊してしまうような愛は本当の愛であるのか。
 キリストの十字架上で表わされた愛は、本当の愛だと思います。それは一粒の麦のように自分自身を犠牲にする愛です。しかしそこには百倍の実を結ぶということがあり、また十字架にも復活がありました。けっしていたずらに自分を破壊し滅ぼしてしまうことではありませんでした。十字架はまさに死でしたが、虚無ではありませんでした。かえって死の象徴である墓が空っぽになったのです。キリストはいのちに復活されました。
 愛はいのちにあふれているものだと思います。人間にはそれができません。神さまだけがお持ちなのだと思います。私たちはただ神さまの愛を信じる者であり、神さまの愛をいただく者です。


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