つまずき
2017年10月3日(火)・・・この人間が現に神の前にあり、いつなんどきでも好きなときに神と語ることができ、確実に神に聞いてもらえるのである、要するに、この人間にごく心安く神といっしょに生きることが申し出られているのである。そればかりではない、この人間のために、またこの人間のゆえに、神は世に来たり、人の子として生まれ、難を受け、死にたもうのである。そしてこの受難の神が、この神が、この人間に向かって、どうか救助の申し出を受け入れてくれるようにと、ほとんど乞いかつ嘆願していられるのである。ほんとうに、世にそのために正気を失うほどのものがあるとしたら、これこそそれであろう。あえてそれを信ずるだけの謙虚な勇気をもたない者は、誰でもそれにつまずくのである。しかし、なぜ彼はつまずくのであろうか? それが彼にはあまりに高きにすぎるからである。
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いったい、つまずきとはなんであろうか? つまずきとは不幸な驚嘆である。それゆえに、それは嫉妬に似通っている、しかしそれは嫉む者自身に向かう嫉妬である、もっと厳密にいうなら、もっとも意地悪く自分自身に立ち向かう嫉妬である。自然のままの人間の狭量さは、神が彼に与えようと思った並はずれたことを受け入れることができない、そこで、彼はつまずくのである。〔キールケゴール〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
303頁
「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(第1コリント1・23,24)
つまずきという言葉はほとんど教会用語になっているような感じです。教会においてつまずいたと言われるとき、それは信仰生活を妨げるもの、例えば牧師や他の信徒、教会のあり方につまずいたというように使われる言葉だと思います。
しかし聖書がつまずくということばを使うとき、それは何よりも十字架につまずくということです。そしてそれはキルケゴールのことばによると、結局のところ自分自身の中にそのつまずいてしまった問題があります。
十字架を受け入れるために、きょうも「謙虚な勇気」をもちましょう。