犠牲
2017年9月29日(金)字義どおりに訳してみると、次のようになる、「私を最も多く魅するすべての空しきものを、私は彼の血に犠牲としてささげる。」私にとって「開眼」の意味をもったのは、「私を最も多く魅する(charm)」という言葉である。キリストの血に証しの奉仕をしようとする者は、「すべての空しきもの」を「犠牲」にしなければならない。それはたしかに「空しきもの」である。しかし単に「空しきもの」であるなら、どうして「犠牲としてささげる」ことができようか。およそ「犠牲」といわれるからには、それは空無なものではあり得ず、何らかの存在でなければならない。しかもそれはどうでもよい無関心な存在ではなく、どうしても放棄し得ない最も価値ある存在でなければならない。ワッツは「私を最も多く魅する」と歌ったゆえんである。
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「私を最も多く魅する」存在であるからこそ、放棄することは、犠牲となるのである。〔北森嘉蔵〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
297頁
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」(ピリピ3・7)
讃美歌142番、新聖歌では117番となっています「栄えの主イエスの」は大好きな賛美歌のひとつです。前任の教会では聖餐式の時の歌としていました。メロディーのルーツはグレゴリオ聖歌と伝えられています。
イエスさまの十字架を仰ぎ、イエスさまにすべてをお捧げして生きることの素晴らしさを歌っているのだと思います。
人生のさまざまな重荷をイエスさまにお捧げする、ゆだねることの大切さと共に、自分自身を、そして自分を魅了するすべてのものをイエスさまの御手にお捧げすること。それが「犠牲」となるのは、お捧げずるものが自分にとって「存在」であり、魅了するものだからです。魅了しない者は捧げるのではなく、ただ棄てるということです。
棄てるということにはどこか悲壮感があるように思えますが、キリストに捧げることにはむしろ新しい出発の喜びがあるのだと思います。