キリスト者は神に隠れる
2017年9月24日(日)彼はまず神に隠れるものでなければならぬ。
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日々新に死すべきなのである。
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極めて卑近なる事実や手近な行為がこの格率の忠実なる実践であることが出来る。
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死といえば戦場や殉死の凄惨な場面ばかりを想起しがちであるが、キリストの兵士の死は常に劇的だとは限らない。十字架を負うて主に従う行為はことごとく死であり、そして、それはとりも直さず神に隠れることにほかならぬ。私は、この神に隠れるという在り方をもって、福音倫理学の領域を形造るところのものと考えている。〔中村獅雄〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
292頁
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2・20)
神さまに隠れることと、日々十字架を負うこと、自分に死ぬこと。自分の願望を後にして、神さまの御心を優先すること。それは日々の小さなことの中にあらわれる生き方です。小さなことに忠実に生きない者は大きなことにも忠実に生きることが出来ません。