病むとき
2017年9月12日(火)基督教の信仰は、人をして病気の中に、さもなくば得難き、修行鍛錬を積ましむるものである。
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よくよく何も出来ない程の重態であったとしても、少なくとも気の慥(たしか)な限は、他人の為に祈禱することが出来る。〔山室軍平〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
280頁
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩編119・71)
何かができるうちは、行動が先だって静まることが難しいものです。病気は何もできないという状況を生みだしますので、静まる道が開かれます。
しかし信仰がないと静まることはできません。信仰がないと何もできないということは焦りを生み出すでしょう。
神さまにゆだねるから静まることが出来、祈ることが出来るのです。そして祈ることが出来るから静まることが出来るのです。