荊から葡萄を
2017年9月8日(金)

兵士らが「キリストの頭」に荊の冠を編んだとき
葡萄がみのり、葡萄酒のしずくが流れたのだと。
・・・
「キリスト」はあらゆる危険を冒し結実(み)を示された。

「キリスト」はいまも岩の荒地より
五千人のための食物をもたらされ、また荊のうえに
そのうなだれた頭より穀物を雨とそそがれたが
御自分はあの数多くの翼あるものの翼に乗って
楽々と天まで はこばれようとは なさらなかった。

〔ジェラード・M・ホプキンズ〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
276頁

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(第1ペテロ2・24)

荊(いばら)から葡萄(ぶどう)を。
イエスさまは十字架に架けられた時、その頭にいばらで編んだ冠を兵士たちによってかけられたました。イエスさまは全能の神さまですから、十字架から降りることも、降りて自らが天の万軍を呼び寄せて、自分を十字架につけた者たちを滅ぼすことも可能でした。しかしそうはなさらず、黙々と十字架につかれました。その苦しみの一つの象徴であるいばらの冠。そのいばらの冠から、葡萄がみのり、葡萄酒のしずくが流れたと詠います。
キリストの十字架を仰ぐとき、私たちはそこにいやしを発見します。


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