価値の転倒
2017年9月7日(木)

山上の垂訓や平野の説教にあらわれている思想は、およそ現世での常識からかけはなれています。いや、非常におそろしい言葉だとさえいえましょう。
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この中では、われわれが常識で知っているような、この世で通用している価値観は、まったく否定され、価値の根本的な転倒がおこなわれているからです。
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しかし、その代りに、このことだけははっきり言いきることができると私には思われます。今、苦しんでいる人、今貧窮に悩んでいる人、あるいは愛する人を失って、その医(いや)しがたい中悲しみにうちひしがれている人、あるいはまた、多くの人から理由もなしにののしられ、あるいは排斥されている人々、そういうふうにして現世における希望を失ってしまっている人々には、これは実にありがたい、まさに福音であり、心がふるえるような喜びのおとずれにちがいないということです。価値観の転倒であります。そして、その中心点と申しますか、あるいは最高頂と申しますか、それがパウロがいったように、十字架による罪の赦しと復活の福音であるということは、皆さんすぐおわかりになるはずだと思います。

〔大塚久雄〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
275頁

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5・3、新共同訳)

山上の説教の言葉は、この世界を生きる者にとって常にチャレンジに満ちた言葉です。この世の価値観とは真逆の方向に生きることを迫ります。この世の波に乗って生きていると自負している者にとっては大きな躓きでもあります。
しかしこの世の波にもまれおぼれそうになっている者にとってはまさに福音です。
ではこの世の波に乗っている者にとっては必要のない言葉なのかというと、そうではないと思います。人間の現実は、その大小に違いがあるかもしれませんが、一様にこの世の波にもまれおぼれそうになっているのです。この世の波に乗っていると思っている者も、ただ現実を知らないか知ろうとしないかだけの違いでしょう。
幸いにも自らの悲惨を知った者としてこの言葉のありがたさに生きることが出来るのは、ほんとうに感謝なことです。


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