われ自らを棄てず
2017年9月5日(火)

もし人はおのおの絶対の主人であって、各自は各自の絶対的所有物であるならば、われわれが自分に絶望すると否とはわれわれの自由の権利であるかもしれない。しかしもし神がわれわれを造りわれわれをしろしたもうものであるならば、神のわれらを拾てたまわざる前にわれら自らわれらをすて去るの権利がどこにあろう。キリス トはくりかえして己をすてよ、自誇をすてよと訓(おし)えられた。しかし己をすてるとは己を塵芥(じっかい)に委するということでない。己(おのれ)自ら己の主人たらんとするの野望をすてて、神の前に己を返還せよとの謂(いい)である。己を塵埃(じんあい)視し糞土視すること、そうやってむやみと己一個をけなしつけることが謙遜なのでない。自己に対する自己主権を放棄して神の前に自己を奉献すること、何事に自意を主とせずして一切を神の大御(み)心に委ねまつること、ただ神においてのみ誇りまた恃(たの)むこと、それが真の謙遜である。故にうなだれた首が謙遜のしるしでない。小児の如くに快
活に、小鳥の如くに喜べる、晴々と暢々(のびのび)した心こそ謙遜なる人の心である。
たとい世の人はこぞって我を侮辱しようと、もし私自らが私を侮辱しない限りは私の品位は少しも傷つけられない。これに反して千万人が私を尊敬しようとも、私自らが私を尊敬することを得ないならば、他よりの尊敬はいたずらに私を苦しましむる因たるにすぎない。そしてたとい全世界の人がこぞって私を棄て去ろうと、もし私自ら私を棄てないならば、私を棄てざるものがなお二人ある。神と私と。ただ一人恋人の彼を棄てざりしがために、世をこぞりて彼を棄てたるにもかかわらず、ついに自己に絶望することを得ざりし人があった。いわんや神われを棄てたまわざるに何をはやまってわれ自らを棄てようぞ。そうして神は決して人を棄てたまわない。ひとりをも棄てたまわない。それがキリストの福音である。人の犯しうる最大の罪は自分自身に絶望することである。一番悪魔的なことは絶望することである。

〔三谷隆正〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
273頁

「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(申命記31・6)

まことの謙遜に生きることができるように、自分をイエスさまの御手の中にゆだねたいと願います。自らに絶望することから救ってください。


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