私の使命
2017年8月30日(水)およそ、贖罪愛のほかに神学を説く道があるだろうか。私は私自身にいうのだ。神学を民衆に渡す時には愛をもってこれを翻訳しなければならぬと。・・・私は15歳の時から信仰は少しも変らない。それは私の神を知った動機によるものだと思う。私がキリストを信じたのは哲学や理屈によってではない。私は懺悔するが、私は不幸の子であった。しかし私は天父の愛を聖書のうちに発見して無限の喜びを感じた。私は人目を避けて蒲団の中で祈った。「どうが私を善人にしてください」と、ひとり静かに祈った。私はこうして35年前に神に約束したのである。すなわちそれ以来小さき者に一杯の水を汲むことをもって私の使命と感ずるようになったのである。それはあまりに簡単だ。そして、あまりに明瞭だ。けれども、私の信仰はこの外に全く何ものもないのである。
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それがどんなにいいことであっても、一杯の水を小さい者に汲むことを忘れていたのでは何の価値もない。〔賀川豊彦〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
264頁
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14・27)
真の神さまであるにもかかわらず人となってくださったイエスさまを愛して生きることが信仰生活です。それはイエスさまが十字架と復活をもって私を愛してくださったからです。その愛を信じ受けいれ、その愛に生かされて行くことが信仰生活であり、そのような信仰生活が救いそのものなのです。ですからイエスさまを信じる者は、今この時に救いの喜びの中にあります。
それは今この時に十字架を負って生きることでもあります。賀川豊彦は「どうか私を善人にしてください」と祈り「小さき者に一杯の水を汲むこと」を使命として感じ生きるようになったといいます。
この「どうか私を善人にしてください」との祈りを私も祈る者でありたいと思います。