指南車たる教会
2017年8月27日(日)人間の世界には風見も大事ですが、指南車も大事だ。
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風見に教えられて、さて風に吹き動いてきたが、われわれの進む道は、ほんとうに進むべき餅は、オーイ、どっちだ? 真南はどっちだ? 教会がこの指南車の役目をするんです。それが聖書によって、信仰によって歴史を読むということ。風見の働きを軽蔑してはいけない。その日その日の風の方向を軽蔑してはいけない。だが同時に、万古不易、永遠不変の南北を指す磁石―指南車―によって、行く手の道をはっきりと見定めなければいけない。国家に、民族に、それがなくては滅びます。それをするのがキリスト教の、いな「指南車」としての教会のつとめです。きかれなくてもいい、信者がふえなくてもいい、一生うずもれてもいいから、牧師、伝道者となり役員となる。この指南車の役目、風見の動きを眺めながら、不動の方向を指す。何年たっても結果が見えない。何の故あって自分は教会に奉仕するんだろう、そう思いながらも指南車の指さす方向に進む。これです、これがわからない人はキリスト教はわかりませんよ。
〔渡辺善太〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
261頁
「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」(マタイ5・13,14)
「指南車」とは広辞苑によると「古代の、方向を指し示す車」ということです。戦争の時に霧で方向が見えなくなっても常に南を指し示す車のことで、これによって勝利がもたらされたという伝説があるそうです。
風見も大事であるといいます。しかしそればかりだと、その時々の風になびいて右往左往するだけです。この世にあって教会はこの指南車としての役割を果たします。地の塩、世の光として歩みます。