国家の革新
2017年8月26日(土)

あらゆる国家形態は、権力という一つのものを持たざるを得ない。それは権威をもち、畏敬され、国の中に住む悪しき者によって恐れられ、善き者によって愛せられ、力を持ち、善を養い、悪を防がなければならない。このように権力を持たざるを得ない国家というものを、ある人は、重い鉄を打った頑丈な登山靴にたとえた。この登山靴は、やわらかい足を、とがった石や危険な茨に対して守ってくれる。政府というものは、君主制であれ民主制であれ、権力を持たざるを得ない。それはしっかりした靴であることが必要であり、さらにこの靴で蹴ることもできなければならないのである。ところが、そのような登山靴が、足を守って歩けるようにするどころか、足を締めつけて、そのために足から血が流れ、歩けなくなるということも、起こり得る。

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足を締めつけて生命を傷つけるような悪い靴は脱いで、別の靴に変えることに努力するのは、改革派のキリスト者にとっての神奉仕である。国家という靴の革新に協力すること―しかも力をつくして協力することは、プロテスタントの義務である。

〔リュティ〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
260頁

「そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。 」(第一サムエル8・10)

イスラエルが王を望んだ時、自分たちを助けてくれる王を望みましたが、それは同時に自分たちを縛る王を持つことになりました。神さまはそのことを警告されつつ、驚くべきことに神さまは民の望む通りをなさいました。

今私たちは、王、あるいは国家というものを持たないではいられません。国家がいつまでも民を保護し民の福祉を守る国家でありますようにと祈ります。


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