私は日本のため
2017年8月21日(月)私はこのごろ、(内村)先生がみずから撰ばれたあの有名な墓碑銘のことを、深い感銘をもってしばしば想い起す。
I for Japan:Japan for the World:The World for Christ:And All for God.
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なかでも冒頭の一句が「私は日本のために」(I for Japan)であって、「私はキリストのために」でもなく、「私は世界のために」でもないことの意味の厳粛な深さを思うのである。
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先生にとっては、聖書の語るところは世界史的な、いな宇宙的な真理であったけれども、それは欧米ででき上った教義としてただ受けいれるべきものでなく、日本人の、日本の「平民」の生活のなかから、そうした「実験」をとおしてみずからそこに到りつくべきものであった。
もっとも、こうした点はひとり内村先生だけでなく、明治のキリスト教の、いなおよそ明治の先覚者たちに多かれ少かれ見出すことができよう。しかし内村先生にあってはきわめて特徴的であり、先生の生涯と信仰の中心を貫いているように感じられる。
〔大塚久雄〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
255頁
「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。 」(ローマ10・1)
パウロは同胞の救いをあつく願いました。同じ文脈で「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです」(12)と語っていますので、同胞の救いをあつく願うのは、同胞であるイスラエル人が特別だからではありません。パウロの祖国に対する愛のために外なりません。
私たちにとって日本は特別です。それは神さまから見て特別なのではありません。神さまにとってはすべての民は特別です。ただ私が日本人であるということから、私にとって日本は特別なのです。ですから隣人を愛せといわれたイエスさまのお言葉を大切に考えますと、日本の救いをあつく願うことは当然のことでしょう。
日本へはキリスト教は西洋をまわってやってきましたので、私たちがキリスト教と思っている者の中には西洋文化が多分に含まれています。西洋文化にも深い意味があると思いますが、そうであるならば日本的なキリスト教を模索することもに深い意味があるはずです。
長い年月を経て日本に定着した仏教の文化を考えてみますと、純粋に仏教的なものというよりも日本の文化的なものもたくさん含まれていることがわかります。そうであれば、そういうものの中にキリスト教的に再解釈していくべきものも多分に含まれているのではないかと思います。そういう考察をしないかぎりキリスト教は、いつまでたっても人々の心の中には根づかないのかもしれません。