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復讐を捨てて恥を耐える

復讐を捨てて恥を耐える
2017年8月16日(水)

臥薪嘗胆復讐の機会をねらうのは、侮辱に負けたのである。そうした臥薪嘗胆は決して真に建設的であることを得ない。復讐は常に破壊的である。
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ただ新生の人のみはいかなる恥辱にも耐えて建設し続けることができる。それはかれが自己に死して神に生きているからである。
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かれのうちなる新しきいのちが、いっさいの人間的評価の埒を乗越える程に活気横溢しているからである。単なる道徳人にはこれができない。むしろかれは当人以上に羞恥心鋭敏であって些細の秩序にさえ耐えない。かれは要するに人の面を恐れ、その道徳的評価に臆するからである。しかし時代の道徳的評価に臆せず、人の世の恥辱に克ちうる魂でなければ、真に人を救い国を興すことはできない。
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新生の人は恥辱に克つことができる。これは実に偉大なことである。そうしてこれは自己以外、人間以外に頼る所がなくてはできないことである。信仰によって新に生まれるのでなければ到り得ない境地である。そうしてそれは至幸至福の境地である。何故ならばそれはいのち充ち溢れていささかの凝滞なく、自由無碍にして暢達の限りなる境地であるからである阻まれざるいのちのよろこび湧き溢れて意気天を衝かんとするものである。

〔三谷隆正〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
250頁

「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。 」(マタイ5・5)

「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 」 (マタイ5・11)

イエスさまを信じる者は、復讐を捨てて恥に耐える者です。恥を耐えるといっても、歯を食いしばって我慢するというのではなく、喜びにあふれて忍耐するのです。


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