われらはすべて預言者
2017年8月10日(木)われわれは誰でも、事に当たって自家の立場を明らかにするとき、正義に組するか、利益と妥協するか、神につくか、悪魔に屈するか、二つに一つを明らかにしなければならぬ。どんな静かな生活をして居る人でも必ずそういう岐路に逢着する場合がある。
〔三谷隆正〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
244頁
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。 」(マタイ6・24,25)
神さまにお仕えする道、富みに仕える道、あるいは悪魔に仕える道、どちらか一つです。両方共という道はありません。キリスト者として生きるということは、ごく小さな場面においてもこの問いに答えることが強いられています。愛に生きる道か、それとも自己中心に生きる道か、と。
マタイの福音書は6章24節においてこのことを語りますが、つづいて「だから」という言葉で25節が語られていることはまさに神さまのみ言葉の真理であると思います。聖書は、お題目が羅列されているのではなく、その文脈の中にも御心が豊かにあらわされています。二者択一の生き方と、人生の心配事から解放される生き方とは密接に結びついているのです。
神さまに仕える道は、自分のいのちのことで心配する生き方から解放される道です。