まことの平和の道
2017年8月7日(月)もし、無防備であるということによって、わたしたちがわたしたちの生存を犠牲にするとしたら、どうであろう。これに対するキリスト者の答はただ、生存が人間の唯一の目的ではないということでしか、あり得ない。人間の生存を軽々しくなげうつわけにはいかない。生命は貴い賜物である。しかし、生命はいかなる代価をはらっても保たなければならないというものではない。
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生きんがためには、名誉、廉恥、慈悲、同情を捨てねばならないのだろうか。
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わたしたち自身は核戦争による殺戮を正当化するためにキリストを引き合いに出す、こんなことがあってよいのだろうか?〔R・H・ベイントン〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
241頁
「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」(マルコ8・34~37)
いのちは大切です。しかし何にも勝っていのちが一番大切であるとすると、不思議なことに生きづらくなります。これは本当に不思議なことなのですが、神さまは私たちのいのちをそのようにつくってくださったということでしょう。
よりよく命を生きるためには、自分を捨てること、自分の十字架を負うこと、そしてキリストのあとをついて行くこと、この三つのことが大切です。そうして自分のいのちを、生き生きと生きること、豊かに生きることが出来るのです。
自分を捨てるといっても、それはどぶのような所に捨てるのではありません。誰よりも私を愛していてくださるイエスさまのみ手の中にゆだねるのです。こんな確かな生き方はありません。
ひとりひとりが自分をイエスさまのみ手の中にゆだねていく。そんな社会の中に平和は実現していきます。
ちなみにこの言葉は、ベイントン著『戦争・平和・キリスト者』からの引用ですが、この本の翻訳はナルニヤ国物語などC・S・ルイス、赤毛のアン(新潮文庫・ジュニア版)、アガサ・クリスティーなどを訳したあの中村妙子となっています。