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教会と世界との対話

教会と世界との対話
2017年8月4日(金)

対話とは、交換、相互のコミュニケーションを意味する。それは、「与えまたうける」という双方を意味する。なぜなら、現代世界のように、人間と生命と世界に関するキリスト教的理解から疎隔した理解が通用しているところでは、世界がまた私たちに教えることを多くもっているということも、事実であるからである。対話は、新発見を求める探求的精神にみち―キリスト教徒ももちろんこれによるのである―混沌の中にも率直な創造性をもって、人生を住みよくするための計画を発展させ、またキリスト教徒をも含めた隣り人にたいするさまざまの人道的責任を印象深く表明しようと努める。このような対話は、私たちをしてキリスト教のメッセージを再解釈せしめ、また暗(やみ)の子はしばしば光の子よりも賢明であるという教訓を、あらゆる謙虚さをもって、ふたたび学ばせてくれるのである。したがって、対話をもってその役目を真に果たそうとする信徒は、ほかの人より優越であるようにふるまったり、あらゆる共通の問題―の解決を、ただちにキリスト教によって保証したり、あるいは早急な社会改革を企ててはならない。ただ単純率直に、自己自身と世界とが正しい問いを投げかけうるようにすることにより、特異な塩、また照射された光となるようつとめるべきである。

〔ヘンドリック・クレーマー〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
238頁

「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。 」(ローマ12・16)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。 」(ペテロ2・3,4)

藤本満先生の書かれた良書『聖書信仰~その歴史と可能性』の中にファンダメンタリズムの精神を要約するために、日本プロテスタント聖書同盟に来日公演をし、米国福音主義神学会の会長を務めたクラレンス・バスの引用があります(102頁)。それによると根本主義は1920年から30年にかけてより狭い立場をとることになったと言います。その狭い立場は三つあって、一つは進化論論争に関してで、創世記の初めを文字通り解釈する者のみが根本主義者であること。もう一つは終末論に関してで、ディスペンセーショナルな解釈こそ唯一の聖書解釈の原理であり、根本主義者は前千年王国論を主張すべきであること。そしてもう一つは、真理を保持する根本主義者は、その純粋性を守るために意見を異にする者たちと協働することは出来ず、分離する以外にないということ。この三つめは一切の対話をしないということにもつながったのではないかと思います。

いのちのことば社はこの数年は何でもありの出版社となられた感があります。それを憂える人もおられるかもしれませんが、出版社がジャーナリズムのひとつということであるならば、好ましいことであると思います。福音派の教会で、日本基督教団出版局からの出版物の中には奨められないものがあると教えられたことがありました。単純にそのように思っていた時もありましたが、どうもそうではないのではないかと今は思っています。いずれも「対話」ということが、自らの純粋性を犯すのではないかとの危惧から出た考え方なのだと思います。分離をすることによって純粋性を保とうとすることです。ここで私たちは思い当たります。イエスさまがその問題点をことごとく指摘されたパリサイ派の人々のことを。パリサイという言葉は「分離」からきていると。聖書的であろうとしていつの間にか自分たちが聖書とは真逆の方向に向かっていることに根本主義者は気づいていないのでしょうか。

「対話」に生きることは謙虚に生きることです。聖書的と思っていてもそこにはすでに「人間と生命と世界に関するキリスト教的理解から疎隔した理解が通用」していることが意外に多いのです。対話の必要性をひしひしと感じます。


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