与えること
2017年8月3日(木)もしわたしたちが何らかの奉仕をたくされているとすれば、わたしたちは自分が内面的に富んだ者になるまで、待っていることはゆるされない、ということです。
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しょっちゅう自己の完成のためばかりに力こぶを入れ、いつもその人間奉仕を<ちゃんと用意ができてしまうまで>先きへ延ばしている人は、かれがこの自己完成ができた暁には、もうひからびてしまっております。なぜならわれわれの生の富は、わたしたちの持っている僅かなものからだけ成っているからです。そういう僅かなものをわたしたちは神の恵みから受けて他に伝えてよろしいし、伝えねばならぬだけだからです。〔ヨーゼフ・ロマドカ〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
237頁
「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた」(マタイ25・15)
自己の完成の理想を持つことは悪いことではないと思います。しかしそれが行動を起させない原因になっているとすれば、少し良くないことかもしれません。
多くの商品や道具は「完成」されていない限り使ってはいけないというのが現代社会の考え方です。不具合が起こると責任問題が起こりますし、もちろんそれ以上に迷惑をかけてしまうからです。
しかし人間には完成はありません。あったとしてもそれは天国においてでしょう。地上にいる限りはだれしも未完成です。ですから「奉仕を託される」ことがあればとりあえず今の自分を、その貧しさのままに神さまのお献げすればよいのです。神さまが補って下さり完成してくださいます。与えられた奉仕を完ぺきにこなすことではなく、自分に与えられた分を尽せばよいのです。