神礼拝としての生活
2017年7月30日(日)もしあなたが不平不満で、憎しみとあらさがしに満たされている時には、あなたはふたたび自分自身の軌道の上にあることがわかります。すぐに転車台に行きなさい。キリストによって自己奉仕から神奉仕へと置きかえていただきなさい。わたしたちが神に奉仕する状態にあるとき、生活は何と不思議なほど自由になることでしょう。
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奉仕する人は真の貴族であり、服従する人は真に自由な人です。
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神がその御子においていかなる価を払って下さったかを繰り返し思い出す必要があります。愚かな、わたしたち自身の思想につまずきをあたえる十字架の使信は、それによってわたしたちが神の智恵を、従ってわたしたち自身の生活に関する真理を経験し・獲得しうるための唯一の手段です。
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真の神奉仕とは、わたしたちが紙の御旨を常にあらかじめ知って、簡単にそれを適用することが出来るような律法ではありません。神は活ける神であり、聖霊は自由の霊です。〔エーミル・ブルンナー〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
230頁
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5・13)
「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。 」(第1ペテロ2・16)
自由を感情の奴隷になることと勘違いしているときがあります。やりたいことをやることが自由であるということではありますが、自分が本当にやりたいことというのを人間は果して知っているのでしょうか。
神さまの喜ばれることをすること。そこに真の自由があります。感情の奴隷になっているときは、それがどんなに素晴らしく見えたとしても、結局は愛やいのちに結びつくことは少なく、結局は憎しみと破壊に行き着いてしまいます。
どんなことであったとしても、神さまのために、神さまに奉仕するならば、ほんとうに自由に生きることが出来るのです。