ウィン博士の聖日厳守
2017年7月29日(土)博士の信仰は、一部のものから頑固と思われるほどに堅実であった。聖日厳守の如きに至っては、今日多数のキリスト者にはほとんど真似のできないところであろう。
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博士は聖日には電車自動車などに乗ることはもとより、俗事に関することがらは一切遠ざけ、もっぱら静思黙想にその日を過ごすのであった。
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大連でも聖愛病院を経営していた柴田博陽が、その裏手に病院を増築していた際、ある日曜日、博士はその工事を見て、「今日は日曜日ですのに、何故工事をしていますか」。すこぶる不機嫌そうに訊かれたので、柴田は、「あの工事は直営でなく、請負です。それで請負者が勝手にやっているのです」と答えた。すると博士は請負者を呼び寄せ、「損害は私が負担しますから、日曜日だけは工事を中止して下さい」。到頭その落成するまで、日曜日の工事は中止させ、博士自らその損害を負担したということである。〔中澤正七〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
229頁
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト20・8)
一週間に一日を安息の日とすることは、人間にとって大切なサイクルです。これをいい加減にしていくと、いつのまには心身ともに不具合が生じ、最終的には人生が破壊されてしまいます。
ただ安息といっても何が安息になるのか、ただ何もしなければそれが安息であるのかということ少し違うような気がします。私たち罪びとは何もしなければ、いろいろと頭の中をかき乱されてほとほと疲れたということになりがちです。安息は神さまを礼拝することによって初めて生まれます。神さまを賛美し、祈りをし、神さまの御言葉に耳を傾けることによってはじめて安息をいただくことができるのです。
私たちは日曜日ごとに教会に集まって礼拝を守り、安息をいただきます。
もともと土曜日であった安息日をキリスト者は日曜日としています。それはその日が主イエスさまの復活された日だからです。かつての守らなければならないという戒律から、復活を喜ぶという信仰生活に変えられたからです。キリスト者は守らなければならないから仕方なしに安息日を守る信仰生活から、復活の主イエスさまを喜びたいという、喜びによって生きる信仰生活に変えられました。