現代生活の忙しさ
2017年7月28日(金)わたしたち現代人は、このんで、じぶんはひどく忙しいのだ、と考えたがるのです。
・・・しかしわたしたちは、みかけのように忙しいのでしょうか。みかけほどの仕事をしているのでしょうか。
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農夫には、忙しすぎて祈るひまがないということはなかったのです。
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そもそも、忙しすぎて祈れないひとは、忙しすぎて考えないひとです。ところで、意味と目的をたえず考えることなしする仕事に、いったいなんの益があるでしょうか。祈りとは、おもいを神にむけることです。〔ジョン・ベイリー〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
228頁
「絶えず祈りなさい」(第1テサロニケ5章17節)
祈るということは、考えるということなのです。考えない、思考をストップするということは祈りではない、少なくとも聖書の語る祈りではない、キリスト教の祈りではないということです。
もちろん自分に終始するということでは全くありません。神さまに問いかけ、神さまからのおことばに耳を傾けることです。自分中心から神さま中心になること。人間中心から、神さま中心になることです。
そういう時間があってはじめて人生の充実が生まれるのです。
祈ることなしに人生を生きようとすることは、意味も目的も考えないでただひたすら回り続ける歯車になることです。あるいは意味も目的も考えないで工場の片隅に転がっている不用とされた鉄くずのような人生です。
パスカルにならうとすれば、人間は世界から見れば弱い葦のような存在ではありますが、考える葦、祈る葦なのです。