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詩篇23篇を読む

詩篇23篇を読む
2017年7月26日(水)

永遠にあの主の宮には啓示がある。そこには隕石のように、私の感じと私の思いの中に、私が閉じ込められているのではなく、その中に突入してきて、私に出会い、私の考えをいつも根本的に変える一つの事実がある。
・・・
自分は自由だ。自分は主体的にさせられている。

〔鈴木正久〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
226頁

「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。」(イザヤ58・6)

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」 (ヨハネ8章32節)

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります 」(第2コリント3章17節 )

自由というのは何にも束縛されないということだと思います。そこで多くの場合自由を自分の好き勝手なことをすることであると考えます。しかしそれは自分というものの奴隷になっている、自分に束縛されていることであると聖書は語ります。聖書はそういう生き方を偶像礼拝と語ります。

人間は自分にとっていったい何が幸せであるのかを知りません。自分にとって幸せであると思いこんで選択した道の先に大きな不幸があったということがあります。自分にとって幸せとはいったいなんであるのか。私たち罪びとは聖書に学ばなければなりません。

私が、私の感じと私の思いの中に閉じ込められているとき、そのところに神さまは突入してきてくださいます。私の「外側」から突入してきてくださいます。ですから自分の中にどんなに否定的な状況があっても、神様への信仰に生きる者には常に希望があります。


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