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心の深みにおりる

心の深みにおりる
2017年7月21日(金)

人々にその必要とする愛と信仰をもたらすことができるためには、祈らなくてはなりません。沈潜し熟思して、わたくし共の深い内部にはいってゆかなくてはなりません。そこではじめて神様にお会いいたします。そして神様との結びつきを、また見出すのでございます。そしてそのためには時間が必要でございます。

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あのいまわしい9月18日(彼女の入院の日)からこの方、ここ幾週間かの間、神様とのこの結びつきを見出すのに必要な時間をもつことができましたのは、わたくしにとって大きな喜びでございました。

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わたくしを通して働き給うのは神様の力でございます。けれど、もしもわたくしが、「この」結びつきを失いましたら、神さまの力も失ってしまいます。

〔シュザンヌ・ド・ヴィスム〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
221頁

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。 」(詩篇62・1)

祈りは、神さまの前に静まることであり、沈潜することであり、熟思することです。自分自身の深い内部に入ってゆくことです。そこで神さまにお出会いします。

神さまにお出会いして神さまから力を、愛を、信仰をいただくことなくして、力に、愛に、信仰に生きることは出来ません。また人びとにこの恵みを語ることは出来ません。

祈りをまるで労働組合の団体交渉のように捕えるとするならば、祈りのもつ大切な意味を見失ってしまいます。自分の願望が実現するように何が何でも神さまに命令するのが祈りであるとするならば、もはや偶像礼拝の中にいるのです。

私の心の奥深くにおいて神さまとお出会いし続けなければなりません。

そのためには時間が必要です。この時間を後回しにするならば、給油しないで走ろうとする自動車のように、たちまち行き詰まってしまうでしょう。もし高速道路で突然停止してしまったら大変危険で自分も他人も破壊してしまいます。この世界では、あるいは時折教会においてすら、祈らずに、あるいは沈思熟考しない人が、人びとを傷つけていく姿をしばしば見かけるのは私だけでしょうか。もちろん自分自身がそういう一人であることを思います。

水路に植わった木のように、いつも神さまから新しいいのちをいただきましょう。


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