練達と熟練
2017年7月15日(土)
練達というのは、熟練ということではありません。
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練達といえば、どんな事態にも巧みに身を処してゆくことではなくて、患難によって養われた忍耐によって、人間の中の不純なものが除かれて、ますます純粋になることであります。
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練達は決して、無感動な生活でもなければ、複雑な心でもなく、神の恵みを知り、神に自分を託することにおいて熟達した人ということでありましょう。
〔竹森満佐一〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
215頁
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 」(ローマ5・3~5)
練達に対比して、熟練という言葉を考察しています。多くの知識や技を身に着けた人である熟練工のように、熟練とは困難にぶつかってもちゃんとやっていけることですが、これに対して練達とは、練られて不純なものが取り除かれていくということです。神さまの前に子どものように無邪気にいることであり、全面的に神さまにゆだねる事です。そこに希望が生まれます。