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王としての自由

王としての自由
2017年7月5日(水)

まず王権に関して言えば、それはキリスト者がなにびとであれ信仰によって万物の上に高められ、こうして霊的力により完全によろずのものの王となり、何物も彼を傷つけることができず、むしろいっさいは彼に従わせられ、彼の救いのために仕えざるをえないようにされていることである。・・・これは、キリスト者のうちのだれかが、地上的権力をもって、いっさいのものを所有したり取り扱っているように、定められているということではない。
・・・
これは敵のさなかにあって支配し、圧迫のうちにあって力強き霊的な力、弱きうちに全うせらるる力以外のものではない。・・・私が、あらゆるものにおいて、私の救いの利益をつくり出すことができ、したがって十字架も死も私に仕え、救いに協力せざるをえないようにするだけである。これこそ高くきわだっている権威、真の全能の力、霊の帝国である。そこでは、もし私が信じさえすれば、善きものであれ、悪しきものであれ、いかなるものでも、すべてが働いて私の益とならないようなものはなく、ただ信仰だけが救いに十分であるから、信仰が力を振い、おのが自由の帝国を統御するためのものをのぞいては私には何物も必要ではない。見よ、これがキリスト者の評価しがたい力であり、自由である。

〔ルター〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
205頁

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8・1,2)

「人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」(第2コリント6・9、10)

御霊、ご聖霊さまに導かれるということは、御霊の原理によって生かされているということです。この御霊の原理によって生きることと、自分がこの世の王のように、この世に対して権力を振るうこととをごっちゃにしてしまっていることが、あるのではないかと自己反省します。
自由というのは、自分の願望が妨げられることなく生きることが出来るということでは、全くありません。主の十字架がそうであったように、また殉教の死を甘んじて受け入れていった使徒たちがそうであったように、全くの不自由と見えることの中に、自由な選択権をもって生きるということです。自由とは、時に自分自身にもあらがって、選択する自由のことです。それが御霊の原理に生きる、御霊に生かされるということです。
「御霊に導かれました」が、感情のままに好き勝手に生きることの言い訳となってしまっていることに出会うと、どんなにご聖霊さまが悲しんでおられることだろうかと、言葉を失います。

信じることさえすれば、私たちはいかなる不自由の中にあろうとも、全き自由に生きることが出来るのです。


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