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キリスト教的偉さ

キリスト教的偉さ
2017年7月3日(月)

基督教は短所をもちかつ誤りに陥りやすい人々によって伝道せられる時、その実はよい実となる。そして品性人格ともにりっぱな人によって伝道せられる時、その実は一時よいように見えても、あまり結果的にはよくない、というようになってくる。私自身ここに非常な疑問をもたせられるが、しかしどうもこの結論が本当らしい?
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基督教会の憂いは人格品性の全きに近い人々の少ないという点にあるのではなく、短所や欠陥をもちならが、しかもキリストを証示する人々の少ないという点にある。

〔渡辺善太〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
203頁

「あなたがたはめいめいに、『私はパウロにつく。』『私はアポロに。』『私はケパに。』『私はキリストにつく。』と言っているということです。」(第2コリント1・12)

人格品性に全きに近い人が悪いのではありません。それ自体は良いことであり、大切なことです。キリスト者の目標といってもよいと思います。問題は、それがキリストを隠しキリストよりもその人自身を見せてしまう、その人の強さにあるのだと思います。ですから逆に人格品性の乏しい人であっても、それがキリストを指し示すことにつながっていないならば、そこには依然キリスト教会の憂いがあるのです。
いずれにせよ、キリストが指し示されるために、自分自身が弱さの中に、貧しさの中に、柔和さの中に生きているということが大切なことなのです。


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