神と語る
2017年6月22日(木)

祈ること―これは地上における、最も謎めいた、独特の行為である。
・・・
これが祈るということである。語ることである。単に考えることではない! 神について考えるということも正しいことである。しかし、わたしたちが神について考えているだけの間は、わたしたちは、やはり完全に、深い、自己の孤独さの中にいるほかはない。自分だけでいる限り、この孤独こそまぬがれないのである。わたしたちが祈っているときは、もはや孤独ではない。祈るということは、いかなる場合にも、ひとつのことを意味する。わたしは孤独ではない。ひとりの方、わたし以外の方が、わたしの前に立ち、あなたと呼ばれる方がおられるということ、わたしはその方の前に立っているということなのである。神はわたしのそばちかくおられ、わたしは神のそばちかくいるゆえ、わたしは神に語るよりほかないのである。

〔E・トゥルナイゼン〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
190頁

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6・6)

祈るということは、目にまみえませんが確かにおられる神さま、に語ることです。大いなる存在に向かって、大勢の中のひとりとして、訴えるという労働組合の団体交渉のようなことではなく、親しく目の前におられる神さまに向かって、二人称をもって語り掛けることです。神さまは聖書の言葉をもって語ってくださいます。ですから祈りは「対話」でもあります。


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