愛の自然の奇跡
2017年6月18日(日)全身全霊をもって神を愛し、隣人をも己の如く愛せよ。・・・まことにこの掟が人間の社会に力を有している限りは、われわれは人類に対して絶望しないでよいわけである。
・・・
信仰というものは、頭脳の遊戯でもなければ、時としてのなぐさめを求める感傷の避難所でもない。真の信仰生活は、神への愛と隣人愛を縦糸横糸として織り成されるものである。
・・・
神父が謙遜に「自然」と呼んでいるものこそ、まさしく、キリストの教えられた神への愛と隣人愛との一致結合にほかならない。〔S・カンドウ〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
186頁
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」」(ルカ10・25~28)
出エジプト記20章に記されている十戒は、最初の3つが神さまを愛すること、5から10が隣人を愛すること。その二つを挟むように第4戒として安息日規定があります。聖書は神さまを愛することと、隣人を愛することがひとつであることを語ります。そしてその掟が、尽きることのないいのちに生きる道であると語ります。
それは正しく神さまを愛してるならば、自然と隣人への愛に実を結ぶということであり、真に隣人を愛そうとするならば、自然と神さまを愛するようになるということでしょう。
隣人愛を持たない神さまへの愛は自己中心であり、神さまへの愛を持たない隣人愛は自己主張です。