あつかましい第三者
2017年6月11日(日)シモーヌ・ヴェーユは私の参考になることを書いている・・・「・・・彼らと神のあいだにわたしという衝立を置きっぱなしにすることによって、彼らにたいして無限の害を与えるのである。」 彼女は彼女じしんをば、「許嫁者どうしがほんとにいっしょになれるように立ち去るべきなのに、ぐずぐずしてその二人といっしょにいる・・・あつかましい第三者」にくらべている。・・・神にかわって崇敬の対象にならんがために、われわれはいくたび神にとってかわろうとしたことであろうか!
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愛する人にむかって心のなかでじぶんへの返事を口授するということを、想像しなかった者がだれかいるであろうか・・・。〔フランソワ・モーリャック〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
179頁
「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」(出エジプト20・4)
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」(第1コリント10・13~14)
「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。・・こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。」(エペソ5・3~5)
ノーベル文学賞作家モーリャックの『日記』の中からの一節。シモーヌ・ヴェーユの言葉からの引用。
いいなずけ同士が仲睦まじくいるのは美しい光景です。そこに「あつかましい第三者」としていることを望む者はだれもいないでしょう。しかしときに神さまと人が仲睦まじくいるべき信仰生活の中で、あつかましい第三者としていつまでもいつづけるのを、喜びとしてしまう罪があると指摘しているのでしょう。牧師にはそのあつかましい第三者になりうる危険がいつもつきまとっています。このあつかましい第三者を聖書は偶像と呼んでいるような気がします。
偶像を造ってはならない、試練とともに脱出の道が見えないのは偶像礼拝をしているからだ、不品行、汚れは偶像礼拝である、と聖書は語ります。つまり神さま以外の者、その最大の者としての「あつかましい第三者」を拝み続けているので、脱出の道が見えず、むさぼりから自由になることができないのです。
偶像を造ってはならないし、また人びとの偶像になってはいけません。