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愛について

愛について
2017年6月10日(土)

愛は重大な何ものかであり、そこでは人はしばしば自分自身の生と他人の生とを永遠に束縛するという危険をおかします
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愛を知りたいという誘惑が訪れたとき、私は、自分が一般に人生に何を求めているのか、人生から何を期待しているのか、それを正しく知ることのできるようなある段階の成熟に達しないうちに、自分の全人生を、予見不可能な方向に縛るかもしれぬ危険はおかさぬ方が自分にはよい、とわが身に言いきかせて、この誘惑を退けました。

〔シモーヌ・ヴェーユ〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
178頁

「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌3・5)

この場合の愛という言葉を、男女の愛、と考えると少しわかったような気になります。「正しく知ることのできるようなある段階の成熟」に達しないうちに、異性への愛を求めることになると、人生が縛られてしまうということでしょう。
しかしなにも男女の愛に限ることではないとも思えます。仕事や使命についても、成熟のない中で一つの決定的な方向付けをすることになるならば、それは危険なことです。信仰も一つの成熟が大切な要素なのかもしれません。
神さまを愛するということは、このような方向付けのために成熟をもたらす道なのでしょう。この成熟を想定しない信仰は、やはり迷信と言わざるを得ません。


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